連載コラム「トップホールディングス誕生物語」

連載「トップホールディングス誕生物語」COLUMN

1964年に父が創業したトップ産業を引き継いで、2代目として歩んできた歴史をトップグループ3社設立とともに振り返り、2023年にグループを統括するホールディングス会社設立までを記した連載コラム「トップホールディングス誕生物語」。 多様な時代背景の中で生きた激動の歩みとトップグループの成り立ちが、お読みいただく皆様の未来につながることを祈りながらお届けします。

【第一章】バブル崩壊後、松下電器での奮闘から学んだこと

もともと私には、トップ産業を継ぐ気はありませんでした。
もちろん昔から、会社を創業した父のことは尊敬していました。
父は、息子の私から見ても優れたアイデアマン。自分で商品開発をしては「ずれない靴下」などいろんな試作品を家に持ち帰り、よく私たち家族に試させていました。
それでも、父が私に「会社に入れ」と言うことはなかったし、私自身も理系の道を突き進んでいたのです。

大学では、物質工学という分野の研究に打ち込みました。
その傍ら、高校で始めたラグビーに熱中。よく飲み会にも参加して、充実した学生生活を送っていました。
4年生になると、企業との共同研究に明け暮れる日々。フロッピーディスクの記憶容量を増やすための実験に力を注ぎました(今思うと少し虚しいですね)。
卒業後は、松下電器(現パナソニック)に技術者として入社することも決まっていました。

ところがここで、大きく流れが変わります。
バブル崩壊。社会が劇的な転換点を迎えました。

日本中が不況に陥り、松下電器も新入社員を研究職や技術職として雇うことができなくなりました。私は、電子部品をメーカーに提案する部署に、営業職として配属されることに。
思い描いていた未来とは全く違う現実に、最初はショックを受けましたね。

しかしいざやってみると、お客様の製品に松下電器の部品がどのようによりそえるのか、技術的な視点も含めて提案する仕事はとても楽しいものでした。
例えば、バッテリーやコントローラなどのユニットを提案し、お客様と一緒にシニアカー開発に取り組んだこともあります。
お客様の要求に100%応える部品を提供したい、という一心でした。

ところが、莫大な労力と費用をかけて開発しても、製品が売れないこともありました。
するとそれに伴い、松下電器の部品も売れなくなってしまいます。
製品が売れるかどうかは企画次第。
消費者の心に響かなければ結果につながらないのだと、企画の大切さを思い知らされました。

製品が売れないと、部品を供給してくれた松下電器の各事業部の売上も落ちます。そして、批判の矛先が私に向かいます。
仕入れ先への責任の大きさと難しさを、松下電器で大いに学びました。

こうして20代は、松下電器の技術をいかに世の中に広めていくかを真剣に考えることに没頭して過ぎていきました。大きな転換点を迎えたのが28歳の時。
トップ産業で「反乱」が勃発し、会社が危機を迎えたのです。