連載「トップホールディングス誕生物語」COLUMN
1964年に父が創業したトップ産業を引き継いで、2代目として歩んできた歴史をトップグループ3社設立とともに振り返り、2023年にグループを統括するホールディングス会社設立までを記した連載コラム「トップホールディングス誕生物語」。 多様な時代背景の中で生きた激動の歩みとトップグループの成り立ちが、お読みいただく皆様の未来につながることを祈りながらお届けします。
【第九章】今治でものづくりへ原点回帰。ここにも、胸に迫るドラマがあった
トップ産業が危機を乗り越え、優生活が軌道にのり、順調に業績を拡大していた頃、私は「もう一度、工場を持ちたい」と考えるようになりました。というのも、トップ産業はもともと「和装バッグ」の製造・販売からスタートした会社。創業当時はプレハブの工場にミシンを並べ、バッグを一つひとつ手作りしていました。その原点に立ち返りたいと考えたのです。
当時、トップ産業は右肩上がりに売上が伸びていました。しかし取り扱い商品が増えるにつれ、その商品がどんな苦労を経て生み出され、どんな工夫が施されているのか、商品を提案する営業社員の知識が薄まっているのを感じていました。
一つの商品を開発することがどれほど大変で、どれほど貴重なことか。
松下電器に勤めていた頃、私はそれを痛感していました。
社員にも、ものづくりの苦労を体感してもらえる現場がほしい。そして、仲間が苦労して作る商品を売ることに全力を傾けてほしい。
ものづくりの現場を通して一つの商品への想いを深めることができれば、他の商品もきっと大事にしてくれるはずです。
そこで、日本らしいものづくりができる工場をM&Aするべく、全国の工場を探しました。
その中で見つけたのが、今治のタオル工場です。
工場見学に行って目にしたのは、澄んだ空気と清らかな水という今治の環境をうまく使い、工場内に取り入れる水量と風量を調整して製造されるタオルの、見事な風合い。その工場に一目惚れしました。
すぐにM&Aの話を進めましたが、一つ大きな問題がありました。
先方からの条件には、トップ産業の社員が社長に就くことが挙げられていました。頭に思い浮かんだのは、東京オフィスの責任者をしていた社員です。彼しかいない、と思いました。
ただ、彼にとっては晴天の霹靂です。東京から愛媛の今治へ、奥さんと小さなお子さんを連れての移住は大きな環境変化です。経営者としての勉強も、一から必要になります。
しかもM&Aには守秘義務があり、契約の直前まで社員に話すことができません。
突然の異動で、彼の人生を狂わせてしまうのではないか。しかし、思い悩んでいては何も前に進まない。心に葛藤を抱えたまま、私はM&A締結のギリギリになって彼を呼び出し、「今治に行ってほしい」と伝えました。「奥さんともよく話をして、明日返事をくれないか」。すると間髪を入れず、彼は一言「行きます」。
驚きました。私が「奥さんと相談した方がいい」と勧めると、彼はこう言いました。
「行くか辞めるか、2つの返事しか思い浮かびません。でも、辞める選択肢は私にはありません」。
彼の力強い返事と私が受けた感動は、今も心に深く刻まれています。
その後の彼の苦労は大変なものでした。
社長を引き継いだ初日、前社長が従業員を集めて、会社が「トップファクトリー今治」として再出発することを告げると、従業員の人たちが泣き出してしまいました。
「私たちは売られたんですか」「仕事がなくなるんですか」と。
これまで通り働いてほしいと説明をしても、私たちに向けられる目は不信感の塊でした。
それでも、社長になった彼は孤軍奮闘してくれました。
社内に「生活文化創造企業を目指して」というトップ産業の理念をすぐに掲げ、約50人いた社員一人ひとりと膝を突き合わせ、「消費者の方々の笑顔を追求したい」「タオルを使ってくれる家族の幸せを一緒に作ろう」と丁寧に説いてくれたのです。
理念が浸透していくにつれ、「毎日工場で作業をしてお金をもらうだけの仕事じゃない」と従業員の考え方が変わり、ものづくりへのやりがいも再発見してくれたようです。バーベキュー大会や社割セールなど、トップ産業らしい文化も浸透させ、社内の雰囲気も変化していきました。
事業では、トップ産業のノウハウを活かし、今治タオルの生地の特徴を活かしたハンカチやふきんなど、新商品も企画しました。さらにこれまでの卸先に加え、インターネットに新たな販売チャネルを作って売上を拡大し、1年で事業を軌道に乗せてくれました。
こうしてトップ産業のグループ会社になったトップファクトリー今治は今、社員のものづくり研修の場としても活用されています。
※ 次回、第十章は11月13日(水)に公開予定です。